2022年御翼8月号その2

 

親は尊敬しつつ、良くないものは断ち切る―― 亀谷凌雲(かめがいりょううん)牧師

  神に従うことと、親に従うことが対立した場合、どうしたら良いだろうか。例えば親が「イエスを信じてはいけない」「聖書を読んではいけない」「祈ってはいけない」「教会に行ってはいけない」「クリスチャンと関わってはいけない」などと言ってきたら、どう応じるべきか。これは、子の年齢や立場によっても言える内容が違ってくるが、「人間である親に従うよりも、神である主に従う方が優先」というのが原則である。
 習慣の悪循環があれば、その道を断ち切るというのも、大切な選択である。ヒゼキヤ王やヨシヤ王は、親の悪い習慣を断ち切った。現代においても、親に悪い習慣があれば、それを断ち切る必要がある。暴力、暴言、怠慢、コミュニケーション不足、不貞、男女関係の乱れ、信頼関係の欠如、噂話をする癖、浪費癖、過度な清貧思考、無計画性、無知、人を支配する傾向、思考パターン、信仰スタイル、アルコール依存、ギャンブル依存、生活習慣など、子が親の悪癖を断ち切らなければならない要素はたくさんある。これらを断ち切ることは、親を尊敬しないことにはならない。親は尊敬しつつ、良くないものは断ち切っていく必要はある。
 だからといって、神に従うためなら親の言葉に全く従わなくて良いわけでもない。神に信頼しながら、親を尊敬する道を模索するのが大切である。尊敬はしても、間違っているものは指摘し、話し合い、解決していくというプロセスが大切である。

 住職から牧師となった亀谷(かめがい)凌雲(りょううん)氏は、住職だった頃、何とか道徳を徹底させたかった。律法を守りたかった。「どうしたら真の人格者になれるか。真のよい品性の持ち主になれるか。その徹底せる道がどこかにないものか。浄土真宗では往生極楽を強調するだけで、道徳実践への指導に欠けている。またその力を得る道をも徹底して教えぬ。ここにいつも私の問題があった」と亀谷氏は記している。
 この世において道を教える人の多くは、それを実践し得る道を示さない。また、律法は与えても、それを行う力は与えない。そのことに気付いた亀谷住職は、キリスト教の研究を始め、遂にキリストを唯一の救い主として受け入れるようになった。なぜならば、キリストは人類の歩むべき最高の道を示されたのみならず、これを実践する道を教えられ、十字架の死に至るまで、自らがその手本となられたからである。
 住職の子として生まれ、寺を継ぐことになっていた亀谷氏であったが、東大を出て、中学校で教師をしている頃、英語を学びに教会へ行った。すると、「十字架の贖(あがな)いにより、来世における永遠の命を実現してくださった神の愛は、現世のすべての生活、事柄において最善の導きを成就してくださる。その愛を体験するとき、他人への愛、真の道徳(律法)を実践することへとつながる」と知り、やがて洗礼を受けた。
問題は、それをどのように母に話すかである。住職になる者として育て、愛情をいっぱいくれた母に対して、自分がクリスチャンになったことを話すと、母は非常に心配し始めた。「お前をば悪いとは思わぬけれど、仏祖に対し、死んだ住職お前のお父さんに対し、本願寺に対し、檀家に対し、申し訳ないではないか、いったいこの寺はこれからどうなるのか、お前きりでこれで断えてしまうのか、御先祖に対してどうしよう」と。
 亀谷氏は、「我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず」(マタイ10・37)「汝の父と母を敬え」(マルコ10・19)という二つの御言葉を思い、信仰は捨てず、同時に母を思い、「愛する母を助けたまえ」と祈り続けた。
 昭和十五年十二月、亀谷氏の母は病が重くなり、昏睡状態に陥る。クリスマス祝会の日、亀谷氏が寺を訪ねると、皆がもう母とは話せないという。しかし、病室に入ると母はパッと目を開けて亀谷氏に言った。「きょうはクリスマスだね」と。これがこの世における母の最後の言葉であった。形は念仏信者であったが、母の弥陀(みだ)(仏)はキリストでもあったのだ。亀谷氏はこう言う。「私から話すキリストの御恩寵をいつも喜んで聞いてくれた母である。いまだキリストのみとの徹底したところへ行っていたとは言えぬ。しかしその途上にあったのではないか。キリストの御降誕(ごこうたん)が忘れられない母であった。このクリスマスのキリストに心満たされて、母はこの世の幕を閉じたのである。召されたるはその二十七日、数え年七十九歳であった」と。母が心配していた寺の跡継ぎには、亀谷氏の弟が住職となり、寺は続けられた。


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