2022年御翼4月号その4

 

内村鑑三のことば 死者との対話

―― 立教大学名誉教授 鈴木範久(のりひさ)
明治から大正、昭和を生き抜いた思想家・キリスト教伝道者の内村鑑三は、妻や娘の痛切な死を経験している。また、関東大震災の被害も目の当たりにした。
不敬事件の混乱の中で、妻・かずは23歳の若さで亡くなる。世間の非難を浴びた内村の自宅には、暴漢たちが押し寄せた。その時、病に伏していた内村を守ったのが、かずであった。しかし、内村の快復後、妻は床に就いて天に召される。その後、かずのお墓へ訪れる内村は、「お墓参り」と言わず、「墓を見舞った」「お見舞いした」と言うのだ。「見舞い」は、互いの会話が成り立つ。内村が死者と話しに行くような感じでいると、向こうからも声が聞こえてきた。「私の亡くなったということを悲しまないでほしい。それは何故かというと、世の中には年老いていながら、寂しく一人で暮らしているような女の人もいる、お婆さんもいるだろう。また一方では、身を売られるような目に遭って、そして悲しんでいる少女もいるだろう。そういう人たちのために尽くしてくだされば、わたしのために尽くしてくれることと、ほぼ同じである。どうかそうしてくれ」というような声が聞こえた、というのだ。
内村が50歳ぐらいの時に、娘・ルツを失う。ルツは女学校を出ると間もなく原因不明の熱に冒され、わずか17歳で世を去ってしまう。
ルツの死期が迫ってきた時、ルツは両親たちを前にして、「モー往きます」と言って去っていった。この言葉を聞いて内村は、ルツが行くべき世界、現世でない世界は、今までは英語で「creed」=(キリスト教信者の)「信条」、宗教的な考え方だと思い込んでいる面もあった。しかし、「creed」ではなく「fact」=「事実」だと強い断言をするほど、ルツの死に直面して内村は変えられた。
 ルツの死から十一年後の一九二三年、内村はさらに関東大震災に遭う。災害の意味は、生き残った者がこれからどう生きるか、正しく導かれるならば、被災者の死が意味ある死となるかも知れない、と内村は言う。
関東大震災の後には様々な追悼会が行われたが、キリスト教系の学校―― 女子学院での追悼会で、内村は以下のように講演した。
  私供は今日、死者追悼の為に集りたりと云ひて、悼み悲み憐む者は私供生者であって、悼まれ悲まれる者は、死者である乎のやうに思ひますが、然し事実は果してさうでありませう乎。私供は       自分の心に問ふて、果して死者を慰むる資格があると思ひます乎。「貴女(あなた)は死んでお気の毒であります、私は尚ほ生き居て幸福であります」と言ひ得ます乎。其反対が事実であると信じます。死せる彼等が生ける私供を支配し、導き、教へ、慰むるのであります。実(まこと)に私供が彼等を悼むのではありません、彼等が私供を悼むのであります。彼等は死して其(その)権威の位に即(つ)いたのでありまして、私供は生きて、其命令に従ふのであります。追悼会は実は死者生者の交通会であります。そして、此(この)会合に於て、生者は死者を迎へて其指導教訓に与(あずか)るのであります。
(「死の権威」一九二三年)
 
 追悼会は、私たちが死者を慰めるのではなく、死者が生き残った人たちの、その後の生き方を問いかけていると、内村は言っている。その生き方が相変わらず自分たちの繁栄だけを考えているような生き方ではならない、と。内村にとっては、死者との対話はまさに見舞いであり、交通会であり、死者の言葉に聞くことによって、生きている人たちの生き方が問われているというのが、内村の死者、生者、あるいは身近な、かず、ルツ、あるいは戦死者、そういう人たちから学んだことではなかったかと思われる。

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