2021年御翼7月号その3

       

安息日 --- からだと魂の安らぎ ―― ケン・シゲマツ牧師

 からだのためだけでなく、心や魂の休息も必要です。深い休息のためには、仕事から離れるだけでなく「内面的な」休息が必要です。真の休息が得られない理由の一つは、自分の価値を人に認めてもらおうとするからです。自分がやっていること、持っているものによって自分は評価されるという心の中のささやきから解放されなければ、完全なる休息を経験することはできません。
 神があなたを愛しているという声を聞く機会を安息日は与えてくれます。その声は、成功や人脈、影響力などで自己価値を計ろうとする思いからあなたをいやしてくれます。業績を通してではなく、神から愛されている者として自分を見ることを教えてくれます。神の子どもとしてどれほど大切にされているかを知れば知るほど、神をさらに信頼できるようになります。
 私たちは集まって祈り、賛美をささげ、聖書の話に耳を傾けて創造主なる神のご臨在に浸るとき、安息日に最も敬意を表すことができます。生活の焦点を自分にではなく、イエスに合わせ、イエスの招きの声に耳を傾け、応答する時に真の安息日を経験します。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11・28~29)。
 神に心を向けることによって、アイデンティティーの中心が私たちのすることや持っているもの、あるいは人がどう思うかではなく、神から愛されているという事実にあることに気がつきます。礼拝は絶え間なく自分を責め続ける内なる声を静め、神の愛を新たに経験させてくれます。そのことが理解できると、からだと魂に真の休息が訪れます。ですから、休息といのちを与えてくれるさまざまな活動の中にあっても、礼拝こそが、安息日の中心となるのです。
ケン・シゲマツ『忙しい人を支える賢者の生活リズム』(いのちのことば社)より抜粋

 藤尾英二郎先生は、生前よくこう言っておられた。「礼拝すると人相が良くなる。人の悪口を言うと、人相が悪くなる。考えるべきことを考えていると、考えなくてもよいことを考えなくて済む。考えるべきことを考えていないと、考えなくてもよいことを考えてしまう。イエス様が贖ってくださった有難さを考えていると、人を恨んだり、失敗を恐れたりする必要がなくなる」と。

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