2021年御翼6月号その4

       

魂の我れ 佐藤陽二『魂の神学』(アンカークロス出版) 

  一九九九年一月三十一日に、二ヵ月半ぶりで、説教を、四十分のを二度させて頂いた。諌見勝則兄が御見舞とともに、電話をくれた。「俺のような、専門家が聞くと奇跡だね」というのである。諌見は内科が専門である。そして「年を取ったら無理するなよ」といって来た。十八歳以来の戦友はありがたい。諌見が見ても奇跡というなら、それでは無駄に過ごしてはならないと改めて思った。
 それは、「魂の我れ」から、入院して、一日か二日目に、次のように話しかけられたからである。白い衣を着ているようだがよく分からない。顔は見えないし、下の方も見えない。しかし言葉だけが聞こえた。私は一言も発することが出来ない。そのような中で「魂の我れ」が語り掛けたのである。「まだ死ぬのではないから」。「まだ語らなければならないことがある」。「罪のゆるしが大切である」。「ときに、息子は四十歳(当時)になるが、何か具体的に考えているのか」。この聲は、慈恵医大の一週間と医療センターの一週間続いた。聖霊に聞いて、「魂の我れ」が、「心の我れ」に話したのである。
 神の霊、キリストの霊である聖霊は、次のように言われている。「しかし、助け主、すなわち、父(神)がわたし(キリスト)の名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」(ヨハネ一四章二六)。聖霊は、「魂の我れ」に、すべてのことを教え、また忘れていたら思い起させるというのである。したがって、聖霊に、常に「魂の我れ」は聞かなければならないし、「心の我れ」は常に「魂の我れ」に聞かなければならない。
 神を信じなくても、「魂の我れ」は誰でも持っているのである。宮本武蔵は、この「魂の我れ」のことを「心の中の心」と言っている。柔道の山下選手は、ロスアンゼルスのオリンピックのとき、怪我をして負けるかもしれないと思った。しかし、そのとき「お前の頑張りはその程度か」と「叱り」続ける声があったという。家内は、はじめの頃は、私のこれからが心配だった、という。私が、「魂の我れ」によって伝えられたことを、私から伝えることができなかったからである。私は、この「魂の我れ」の聲をはじめから聞いていたので平気であった。人は定年退職から死ぬまでが長いのであるから、これからは、この人々に、罪の救いの大切さを伝える必要がある。

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