2021年御翼6月号その2

       

霊的な環境を作る ―― ケン・シゲマツ牧師

 神は私たちに力、愛、健全な精神を与えてくださるとパウロは言う。これら天からの力は、聖霊降臨日で新しく生まれた教会に降(くだ)され、臆病な漁師たちを、世界を駆け巡る宣教者に変えるのと同じ力である。(聖霊降臨日:イースターによみがえられたイエス様は、40日間神の国について語られた後、「まもなく聖霊が降る」と預言されて天に昇られた。その10日後の日曜日に、実際に聖霊が使徒たちに降った。その日は、ユダヤ教の春の収穫感謝祭である五旬祭(ペンテコステ=ギリシャ語で50日目)と重なる。
 神は聖霊の働きにより、力と愛と健全な精神を送ってくださるのであるが、私たちは、それを受け取る「霊的な環境」を作る必要がある。太平洋に面したカナダのバンクーバーに住み、セーリング(ヨット)を趣味とするケン・シゲマツ牧師は、風のない日にセーリングに出ると、イライラするという。風を待って、待って、待ち続ける。「私たちには風を起こすことはできませんが、風がない時でもできることがあります。セール(帆)を調整したり、舵を切ったりして、風が来た時に備えることができます。たとえ風が来たとしても、それらの準備なくしてセーリングをすることはできません。私たちの人生の中でも、聖霊の風を吹かせることはできませんが、聖霊の風のために準備できることはあるのです」と師は言う。
 私たちが神の霊を受け取るために、ただ多くの霊的活動や奉仕に参加しても、必ずしも成長につながらないことがある。主の祈りを何百回、何千回祈ったとしても、真に祈ったとは限らないとマルティン・ルターは言った。それは、生ける神と十分に交わっていない場合があるからである。毎週教会に行っても、心から真の礼拝をささげたり、神の声を聞いたりしているとは限らない。多くの霊的な活動に参加していても、必ずしもイエス様との関係を深めているとは言えない。皮肉なことに、一度に多くの霊的な習慣を持とうすると、実際にはイエス様との関係が表面的になってしまう可能性があるのだ。どの活動においてもイエス様を深く経験することができないからである。
 毎日、定期的に聖書を読んだり、祈ったりすることに関して、「私はとても忙しいので、そのような生活はできません」、あるいは「自己管理能力がないので、私には無理」と言う人がいる。しかし、そういう人たちに対して、シゲマツ牧師は以下のように言う。「もし、それらの習慣を重荷に感じたり、やらなければいけないことがもう一つ増えたと感じたりするなら、それはおそらく聖霊によるものでなく、自分で作ったルールだということです。イエスのくびきは負いやすく、荷は軽いと聖書に書いてあります。イエスの『くびき』を負うこと、つまり彼に従うことは私たちのたましいにとって休息になると、イエスは教えています(マタイ11・28~30)。無理と不安がつきまとう仕事、欲や恐れからのプレッシャーがある仕事は、決して神から直接与えられたものではないと、トーマス・マートンも『沈黙の新しい種』の中で述べています」と。
シゲマツ牧師の教会に来ている看護師・ゲイルは、二人の十代の子を持つ母親である。彼女はこう言う。「神様は、大切なことは、神様との関係を持つことであり、霊的な仕事をこなすことではないことを示してくださいました。はじめは、急いで一定の聖書箇所を読み進めることより、静思の時に神様と会話を持つことの方が私にとって有益なことだと、なかなか思えませんでした。大切なのは関係で、一日にどれだけ多くのことをやり遂げるかではないと、神様は私に教えてくださいました。今はただ神様との関係を楽しみ、感謝すること、更にそのような関係を求め続けることを望んでいらっしゃるように思えます」と。
霊的習慣はそれを行うこと自体に目的があるのではない。予定表に並んだリストを消すために聖書を読んだり、祈ったり、霊的な仕事をするのではない。生活のルールはイエス様と共にいることを楽しむスペースを作るためのものなのだ。
ケン・シゲマツ『忙しい人を支える賢者の生活リズム』(いのちのことば社)より

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