2019年御翼4月号その1

                           

東京大空襲

  3月10日は東京大空襲の日である。東京は106回の空襲を受けたが、大規模なものが5回あり、その最初が一九四五(昭和二十)年三月十日未明の空襲であった。325機のB-29爆撃機が現在の江東区、墨田区、台東区、中央区を空襲、2時間の間に10万人が焼夷弾で焼け死んだり、窒息死したりした。
B-29は、当時の日本軍用機が飛べる最高高度6千mよりもはるかに高い高度1万mを飛び、攻撃されることなく、ピンポイントで目標に爆弾を落とせるよう、現在の四兆円をかけて開発された。ところが、日本の 上空1万mには、時速200 ㎞の偏西風が吹いており、高空からでは爆撃制度が狂い、戦果をあげられずにいた。そこで、米軍はピンポイントで日本軍の施設を爆撃するのではなく、民間人が住む全国の都市を無差別に焼き払う作戦に転換した。民間人を殺傷し、日本の戦意を喪失させようというのだ。当時の米軍には空軍は存在せず、B-29の指揮権は陸軍にあった。その陸軍航空部隊は、陸海軍よりも格が下に見られていた。航空部隊は空軍として独立を果たすためにも、B-29で戦果を上げたかったのだという。
 落語家の初代林家三平の妻で、作家の海老名香葉子(えびなかよこ)さんは、六人の家族とたくさんの親戚を亡くしている。戦後、長いこと米国人を憎んでいた香葉子さんであるが、ある出来事がその気持ちを変えた。息子の仕事でニューヨークのある食堂にいたとき、隣に座った米国人男性は真珠湾攻撃で片足を失ったという。香葉子さんの娘が、「母も戦争で孤児になったんです」と男性に伝えると、その男性は、食器を片付けると、香葉子さんの真横に立って、かぶっていた鳥打帽を胸にあて、深々と挨拶をしてくれた。香葉子さんは「この方は片足なくて不自由なさっているのに、私に気の毒にっていう気持ちで挨拶してくださった」と思った。香葉子さんも立ち上がって挨拶をした。そこから気持ちが変わったという。「アメリカがいけないんじゃない。戦争がいけないんだ」と。
 失った家族とは、天国で再会できることに希望を持ち、地上にいる間は、愛と赦しに徹したとき、そこには神からの祝福が与えられる幸せがある。そこには、神の愛を分け与える使命に生きる素晴らしさがある。それはおのずから、律法を守る生き方になっていくのだ。


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