2017年御翼6月号その4

                           

日本人の信仰

 ある教会の隣の家が火事になったとき、ご近所の方が、「よかったわぁ、教会に燃え移らなくて。だって、神様でしょう…」と言った。この方は信徒ではないが、宗教を超えた「神」を信じる「日本人の信仰」を示した。以下は、吉村忠敏『日本人の信仰が世界を救う 元キリスト教牧師が語る神の国ニッポン』(さくら新書)からの抜粋である。

 他の国では宗教心を持つことは特定の宗教を持つことを意味することが一般的ですが、日本ではそうではありません。多くの日本人は、宗教心は大切だと考えていますが、特定の宗教を持つことには抵抗があるということではないかと思います。日本人は「信仰」と「宗教」は別だと考えているのではないでしょうか。
 考えてみれば、大切なことは聖書が教える生活を実践することであって、必ずしもキリスト教徒になることではない。宗教は自己主張を正当化し、分裂と対立を助長し、本来の信仰心から逸脱させてしまう危険性を持っているということを日本人は感じ取っているのかもしれません。大切なことは「宗教」ではなく「信仰」だという日本人の宗教観は正しいと思わされます。
 キリスト教は西欧諸国で発展した宗教であるために、本来のイエスの教えや聖書の教えとは関係のない西洋文化の影響も大きく受けています。たとえば、聖書は全て「神のことば」だということで、その一言一句を教典として解釈して、そこから普遍的な教えや教義を引き出そうとする読み方がキリスト教にはありますが、そのような読み方をすると、それは絶対化された「宗教」の教えになってしまいます。(そして)キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のような一神教と言われている宗教では、それぞれの神様こそ正しい神様だと主張し、そこに一致を見出すことは困難なようです。しかし、宗教はいろいろあっても、全てを超越する神様は一人しかいないと信じる日本人の信仰こそ本当の意味で唯一神信仰だと言えます。これが、イエスが教えた信仰であり、「日本人の信仰」だと思います。
 戦後の日本には人間中心、自己中心の価値観が、それがあたかも良いものであるかのように欧米から入って来て、それに影響されて、「神様を中心にして生きる」という「日本人の心」が軽視されるようになったと感じます。イエスの宣教の最初の言葉は「悔い改めなさい。天の御国(みくに)が近づいたから。」(新約聖書マタイの福音書四章十七節)であったと記されています。「悔い改めなさ い」とは、方向を変えなさい、という意味です。
 「天の御国」とは、神様を中心とした国という意味です。それが福音(良い知らせ)だとイエスは教えたのです。私たちはもう一度この原点に帰る必要があると思います。

  但し、上記のように強調することは、イエス様の贖いを中心としなくなる傾向が出てくる。しかも、「全てを超越する神様」がどんなお方であるかが曖昧である。神観も含めて、イエス様の言葉こそ「普遍的な教え」であり、旧約聖書には、絶対化してはならない、イスラエル民族的な表現がある、ということなのだ。ここで主張したかったのは、西洋的なキリスト教から離脱することが怖く、キリストの福音に頼り切れない現実は、日本のキリスト教会にもあるということである。

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