2018年御翼2月号その2

                           

内村鑑三の信仰の歩み

 1877年、内村鑑三は札幌農学校に入学して間もなく、「イエスを信ずる者の誓約」に署名し、キリスト教に入信する。この署名は「私の意志に反して(先輩達に)強制されたもの」と本人が語っている。内村の、回心をともなった入信ではなかった。最初は、キリストに反発していた内村であったが、他の宗教が、自己一身の修養にとどまったのに対し、キリスト教は他者との交わりの宗教であったことに、関心を示した。
 卒業後、農商務省の役人だった頃、一八八四年浅田タケと結婚、半年もたたずに破局した。その理由は、タケの異性関係にある疑惑があり、彼女が「羊の皮を着た狼」であったと述べられている。新しい人生の方向を求めて渡米した内村は、とても親切なクリスチャンたちに出会う。それまでは、信仰と言っても、「行為主義、律法主義」であり、よい行為の数多くできる人々、すなわち善人、金持ち、賢者、強健(きょうけん)な人間が尊ばれ、罪人、貧者、愚者、病人、弱者を軽んじる傾向があった。だから、罪の克服は、人間の努力や道徳的な行為によるものであると、内村は考えていた。
 渡米して一年後、アマスト大学に編入した頃も、心の中での自己中心的傾向、つまり罪の克服をめぐる闘いは依然として継続していた。ある日、アマスト大学の総長シーリーは内村に向かって、次のような言葉を投げ掛けた。「いたずらに自己の内心のみを見ることをやめよ。君の義は君の中にあるに非ず、十字架上のキリストに在るのである。内村、君は君のうちをのみ見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。何故おのれに省みる事を止めて十字架の上に君の罪を贖い給いしイエスを仰ぎみないのか。君の為す所は、小児が植木を植えてその成長を確かめんと欲して毎日その根を抜いて見ると同然である。何故に、おのれを神と日光とに委ね奉り、安心して君の成長を待たぬのか」と。これまでわかりかけていたものが雲を払い、十字架のキリストの贖いの意味が、内村に明らかに示されたのだ。
 米国での生活を始めた頃、内村は既に米国に帰国していたあのクラークに書簡を送った。その中に、内村の決意が書かれている。それは、これまでは政府の役人として日本国の発展のために努めて来たが、「物質的な日本」ではなく、「霊的な日本」のためにこれからは働きたいというものであった。札幌農学校卒業時、将来、一身を二つのJ、Jesus とJapanとに捧げることを誓い合った内村の決意はいっそう固いものとなり、日本へ帰国することになる。

 ところで内村鑑三は、4度の結婚と2度の離婚を経験している。一人目は浅田タケで、お互い個性が強すぎ、半年で別居する。後に娘も与えられるが数年後離婚し、娘はタケの兄の養女となった。二人目は良い妻だったが、内村の不敬事件などで迫害され、心身共に疲れ果て23歳で亡くなる。三人目は旅先で出会った女性で、すぐに離婚した。どんな女性で、いつ知り合って結婚したのか、また、なぜ離婚したのか一切不明で、謎の結婚であった。四人目の岡田静子は、穏やかで優しい女性で、内村のよき内助役を努め、以後38年間、苦楽を共にして内村の死を看取った。彼は、「しずは内村の家に福を持ってきた」と感謝していた。
若い頃の内村鑑三は十字架の信仰によって立ち上ったのであった。そして、彼の個性の激しさは、主によって赦され、潔められ、活かされて神に用いられたのだった。

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