2017年御翼5月号その3

                           

人生はサッカーの試合のようにスリリング―― ジョルジーニョ

 「サッカーの試合には予期せぬ驚きや波乱があり、結果を予測することが難しい。人生もサッカーのように驚きが多く、予測不可能で魅力的である。病気、金銭問題、家庭問題や死に不意を突かれることがある。私たちは、人生という試合に出て、予測していなかった『延長戦』や『ペナルティーキック』に立ち向かう準備はできているだろうか。誰もが、私たちを創られた神が共におられなければフィールドにも入れない」と、人生をこのように、サッカーの試合にたとえているのは、一九九五~九九年まで鹿島アントラーズでプレーしたブラジル出身のジョルジーニョ(ジョルジ・デ・アモリン・カンポス)である。
クリスチャンであり、誠実で温厚な性格で、ファンへの対応も丁寧だった。二〇〇〇年、貧しい子供たちのための施設をリオ市郊外に設立する。ジョルジーニョ自身、幼い頃、父親を事故で亡くし、経済的に苦しい少年時代を過ごしたことから同じ境遇にいる子どもたちに人生の機会を与えたいと考えており、現在施設では6歳~17歳の約九百人の少年少女たちがその年齢に合わせて学芸やスポーツ、職業訓練などを学んでいる。
 ジョルジーニョは、以下のように言う。
人生でも私たちは「試合に負ける」ことがある。その最大の原因を聖書は「罪」と呼んでいる。聖書が言う「罪」とは「的を外す」という意味があり、神が求めるきよさの基準に達しないことである。別の言い方をすると、ゴ❘ルを目前に「シュートを外す」ことなのだ。私たちが罪を犯す結果として、挫折、罪悪感、悲しみ、痛みなどが伴う。神の言葉である聖書は、私たち全てが罪人であり、罪の問題のために神の助けが必要だと断言している。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3・10)人生に勝利するには、以下の正しい「プレー」が必要である。
一 自分は助けが必要な罪人だと認める。
二 神の御前で罪を告白する。
三 イエス・キリストが救いを与えるために十字架で死んで、復活されたことを信じる。
四 祈り、イエス・キリストを救い主として、また、人生の主としてお招きする。
 ブラジルのルシオ選手は以下のように言う。「多くのサポーターは、私たちプロのサッカー選手は、多額の年俸のために幸せなのだと思っています。それは大きな間違いです。本当の幸せはこの世のどんなお金でも買えないものなのです。本当の幸せとは、神様の家族の一員になることです」と。サッカーの試合のように、予測不可能な出来事が起こる人生で、自分の思い通りに生きようとすることが無理なのだ。わたしたちは、この世から称賛されることを求めていては、神の愛を見出せず、人生で満たされることはない。ジョルジーニョは、20歳にしてプロ・サッカー選手として、この世の富と名声を手にしていた。豪邸、高級車、贅沢な食事、フィアンセもいて、欲しいものは何でも手に入った。しかし、彼の心は満たされず、人生に平安もなかった。しかも選手としてはチームで一番乱暴で、イエローカードや退場は数限りなく、怪我も多かった。女性からの誘惑も多く、フィアンセとはあまりうまく行っていなかった。そんな頃、酒癖の悪かった兄がクリスチャンになり、別人のように明るく、平安な毎日を過ごすようになる。ジョルジーニョは、金も名声も物も、兄とは比べものにならないくらい、たくさん持っていた。しかし心は空っぽだった。そこで、イエス様を求める決意をし、礼拝に出席して聖書も読み始め、やがてキリストを受け入れた。クリスチャンになってからは、フェアな選手になるように祈る。すると91年度には、国際サッカー連盟から、フェアプレー賞を受賞した。彼は家族も大切にし、ブラジルの福祉団体に多くの寄付を捧げている。
 かつてジョルジーニョがMVP(年間最優秀選手)に選ばれたとき、授賞式でこうスピーチした。「私がキリストを信じ、この方の愛が心に注がれていった時、私のサッカーも変えられていったのです。イエス・キリストは今も生きておられ、私たちを愛してくださっています。その愛を、私は日々体験しています。イエス様がありのままの自分を受け入れてくださっているのに、どうして落ち込む必要があるだろう。試合に負けたからといって、イエス様と自分との関係が揺らぐことはない。もし僕がイエス様に出会っていなかったら、まわりの人々の評判や言葉に惑わされ、振り回され、自分というものをしっかり保てなかっただろう」と。  
ジョルジーニョ『栄冠をめざして』(いのちのことば社)より

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