2017年御翼2月号その3

                               

誰をも顧みてくださる神――既に起こっているリバイバル

 大東亜戦争の頃日本は、世界の暴れ者であったかのように言われることがある。そんな日本にも、神の愛は及んでおり、武士道という賜物を授けてくださっている。
 武士道は敵を敬う。例えば、昭和20年、天皇に懇願され七十七歳で首相になった鈴木貫太郎は、武士としての教育をうけていた。敗戦直前4月22日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが亡くなると、鈴木首相は海外にむけて「私は深い哀悼の意をアメリカ国民におくるものであります」という弔電を発信した。同じとき、ドイツのヒトラーは死せるルーズベルトをののしりつづけていた。当時アメリカに亡命していたドイツの文豪トーマス・マンはイギリスのBBC放送で「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」といって鈴木首相の武士道精神を称賛した。乃木希典は日露戦争の敗軍の敵将ステッセルに恥をかかせないように、水師営(すいしえい)の会談では帯刀を許している。それに引き換えマッカーサーは、敗戦した日本の天皇を呼びつけ、出迎えもせずパイプを手にして対応した。「敗戦の全責任は私か負う」といわれた天皇のおことばにいたく感動したマッカーサーは後日、天皇ほどの紳士に私は会ったことがないと述懐している。昭和天皇は、武士道をその体と心で表わされたのだ。
神の御心は、人がお互いを思いやり、慈悲深く、同情し合い、愛に根ざして和をもって過ごし生きて行くことである。日本ではクリスチャン人口が少ない(全人口の1%未満)。しかし、日本では、武士道という名のもとで、西洋とは違うかたちで日常生活の中に、キリストの精神が静かに現れている。
武士の魂と言われたのが日本刀である。
 新渡戸は解説した。「武士の子は五歳で短刀をもらい、十五歳(江戸時代の頃。時代によって11歳から17歳くらい)で元服し刀を所持した。鋭利な武器をもつことにより誇り(自尊心と責任感)を抱いた。腰に差す刀が、忠誠と名誉の象徴であった。大小の日本の刀は腰から離されず、寝るときも手の届くところに置かれた。持ち主の良き友となった。人をまたぐことが許されないようにそれ以上の意をもって刀をまたぐことはなかった」と。西洋人は、カーペットに座って両足を投げ出している上をごく自然にまたぐ。そばに聖書が置かれていてもその上を平気でまたぐ。
 聖書には、剣を神の言葉として帯刀せよ(エフェ 6・17)、とある。剣は、善も悪も判別する神のことばの威力を意味した。神の言葉である刀を腰に帯びさせている者たちが現代に生きるサムライである。教会は真理の柱、また土台であるから。キリスト信者一人ひとりが、イエスのことばを腰に帯びているサムライであるべきなのである。もちろんこれは、日本だけに限ったことではない。ただ日本にはその素地である。“刀”があるのだ。
 内村鑑三、新渡戸稲造に続くサムライ基督者が、刀である神の言葉を腰に差し、忠誠心、献身精神を真に発揮すべきなのだ。
畠田 秀生『武士道はキリストが起源だった』(文芸社)より抜粋

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